Serenity Fruits

Serenity Fruits

日常や趣味についてつぶやきたい事を書く。愚痴も言う。無理せず自分のペースで好きに過ごしたい。独り言ノートなので、意にそぐわなければ何も言わず引き返してね。
日常や趣味についてつぶやきたい事を書く。愚痴も言う。無理せず自分のペースで好きに過ごしたい。
独り言ノートなので、意にそぐわなければ何も言わず引き返してね。

終わりが見えない今の娯楽と人間関係の闇

見たくない方は静かに引き返してください。見た後にどんな反応をされても私に責任は取れません。閲覧は自己責任で。


近年のオタク界隈では自浄作用は期待できませんし、問題点について困った事を話せば叩かれるので冷静な話し合いもできず野放しになり、それでも正直に話し続ければいずれは噛みついてきた人と角突き合わせてマウントの取り合い合戦になるので、キリがないんだなぁと最近は気づくようになってきました。

冷静に良くない事を指摘しても「そっちもそれはどうのこうの」と重箱の隅をつつかれてしまうし、向き合い続けても結局は腹の探り合いになり平行線。
ずっと、そっちがどうこう、あなたもどうこう、そっちのほうがあなたのほうが…と無限ループ、水掛け論にしかならない。
だから思う所があってもこうして密かに嘆くしかなくて。それでも声を封じたがる人はきっといる。
何も言わずに耐えていた所で、嫌な風潮はますますエスカレートしていく。終わりが全く見えません。

争いたくはないけど、吐き出したいし理解されたい現状への不満や苦痛はたくさんある。それくらい許してほしいのに、勝手に争いの火種になる事をしているといちゃもんをつけてきて黙らせてこようとする人が噛みついてくる。
言っても言わなくても悪循環。せめてファンコミュニティからは離れて作品やキャラクターだけを楽しみたいと思ったとしても、作り手も良くない流れに乗っかったりして作品やキャラクター自体も濁っていたりするので、そんな少しの願望すら叶わないんですよね。

娯楽も、オタクの交流や活動も、心を癒やすためのものではなかったのか。
いつから娯楽は、暴力や自己顕示が好きな人の破壊欲と承認欲求を満たすためだけの場所になってしまったのか。
オタクは、好き勝手暴れても許されるためのステータスなのか。ファンコミュニティは同調圧力で上辺だけで無理やり馴れ合ったり、お互いに奪い合いケンカし合うための場所だったのか。
こういう事だって、考えてもキリがない。考えて嘆いたところで世界は変わらないから。

いつになったら、娯楽は本来の意味での娯楽として安心して楽しめる場所に戻り、オタクは自分が狂っているのをすごい事のようにアピールするための称号ではなく、同志と分かち合い楽しさを温かく共有し合えるコミュニティに戻るのでしょう。
平穏にアニメや漫画やゲームを楽しめていた頃の娯楽の世界を、一秒でも早く返してほしいですね。

正義を嫌い悪を尊ぶのに、正義を都合良く利用する人

見たくなければ静かに引き返してください。見てからどんな反応をされても私は一切の責任を取りません。閲覧は自己責任で。



オタクにも、オタクじゃない人にも多いですが、正義を嫌ったり笑ったり悪を称賛して持てはやす人がよく目立っていて、声も大きくて疲れます。

近年のオタクを名乗る方々には、自分の行き過ぎた行動を咎める声にすら「正義を振りかざすな」と言いながら、自分も「自由があれば何やっても許される」という自分の思う正義を周囲に押しつけている人が多く、ものすごくダブルスタンダードだと感じます。
よくわからないローカルルールも絶対に正しい事のように従わせようとしますしね。
人それぞれの価値観を尊重しようと言いながら、自分の気に入らない価値観を持つ者は糾弾したがる選民意識や、自分の周囲を顧みない勝手な振る舞いや心ない事に愉快さを感じる思慮の欠如した感性は、普通の事として無理やりにでも認めてもらおうとする。
彼らの思う正義は彼らの保身にのみ適用され、自分以外の人の気持ちはどうでもいいようです。

どんなに悪い事をしても事情や信念があれば全て罪は許される、それを止めようとする正義を持つ人は誰かの価値観を独断でジャッジする身勝手な人間だと非難される。
自分に都合の良い事だけが正義で、自分に都合の悪い事は悪。
そんなに悪い事が大好きで正義が嫌いなら、なぜ自分に都合の悪い事が起こると正義や常識をわかったように語って、正しい側でいようとするのでしょう。そんな事したって、反省と改善がない限り正しい側にはいられるはずがないのに。
自分さえ守れれば、屁理屈で押し通そうと、どんな手段でも正義と言い張れればそれでいいのだろうなと思います。
こういう時、やっぱり日々自分を省みて改善を試みる事って本当に大切だなと思います。それすらしようとしない人があふれ返っている。反面教師にしなければと感じます。

あと、正義がなければ今ここで自分は健康に生きられていないかもしれないという事を忘れているように思います。
人は自分一人だけでは生きられない、だからこそ誰かの正義によって自分は守られて生きてこられている所だってある。それなのに「正義は人を縛るもの、人に価値観を押しつける傲慢な態度」だと、正義を知ったような口ぶりで語る。
自分こそ身勝手な、正義とも言えない正義を、ただの屁理屈を唱えてるだけなのに、正義を勝手だと否定する資格はないと思うのです。

正義も悪も人によって見方が違うし、正解も人それぞれではありますが、やっぱり人の気持ちを考えずに自分の得だけを考えて誰かが著しく困っていても乱暴な振る舞いを続ける人が悪いのは確かで、それは正義でも何でもないと思います。
悲しい事に、それを自分らしくいる事だと勘違いして、自分はちゃんと正しい事を考えられている立場として信じてしまっている人が多いですね。

他の国でもそういった傾向はないわけではないですが、日本は特にその傾向が顕著に表れている気がします。なぜなんでしょうね。
理由がどうであれ、本当の正義が戻ってくる日は来るのでしょうか。今は当分無理そうですけど。

とにかく、こんな風潮や人々が早く鎮まる日を待つばかりです。
私だけではなく、声が目立っていないだけで身勝手な人が幅を利かせている現状を嘆く人は少なくないのですから。

未だに来る嫌がらせ

またポイピクに卑猥な比喩の絵文字投げつけてきてる輩がいるようで、本当くだらないなと思います。
嫌がらせなのかモラルに欠けた評価方法なのか知らないですけど、もう私は屈するつもりはありません。どうせもうポイピク使いませんし、リアクションOFFにすればもう嫌がらせできるスペースもなくなる。残念でした。

旧ツイッターをやらなくなって、つなビィやTrickleでひっそり過ごすようにしても未だにわざわざ見てきて嫌がらせしてくる人いるんですかね?粘着も甚だしくて気持ち悪いですね〜。
もうあなた達が好き勝手できてる場所からは距離置いて、日陰で独り言つぶやいてるだけなんですし、文句言わないでくださいよ。
トイレでご飯食べてる所にまでわざわざ追いかけてきてバケツで水ぶっかけてくるいじめっ子と何ら変わりないですよ。
その執念もっと良い事に使えないんでしょうか。そんなふうに悪い事にしか使えないからいつまでも人を傷つける事でしか自己顕示できない人間になるんですよ。
いい加減嫌がらせすれば我が通ると思い込むのやめてほしいですね。甘ったれんなよと

私の苦しみを押さえつけようとしたり、私が唯一心の内を吐き出せる場所を侵す人間には容赦しない、邪魔はさせないと言ったでしょう。
たとえ身を引く形になっても、私はどんな形でも徹底的に抗うし、私が引き下がっても嫌がらせしてくる輩は永遠に優位には立てないし、嫌がらせしてくる時点で人として負けです。
私はもう絶対に自分の心に嘘はつかないし、声を発する事をやめたりはしませんから。理解してくれる人もちゃんといますしね。
人が苦しんで発している声でも、自分に都合の悪い声だからと叩き潰す事しかできない人は、どこかでしっかり煙たがられてますから。
諦めてくださいね。

思い入れのあるものを荒らされる辛さ

気に障ると感じたら何も言わず引き返してください。


近年のオタクを名乗る方々って、作品が好きというより鬱々としたものや暴力的なものが好きで、かつそんなヤバいものを好む狂った自分が好きで、自分に都合の良いおもちゃを探してるだけって感じがするんですよね。
本当に作品を愛してる人もいるのかもしれませんけど…それでも近年のオタクの作品やキャラクター、その他諸々の扱いには目に余るものがあります。
何でも曇らせとか〇〇虐とか闇堕ちとか…とにかくキャラクターを表立っていじめたがる。

私の好きなジャンルや小さい頃から慣れ親しんだ作品もことごとく露悪、闇、その他あらゆる過激なもの好きのオタクの方々のおもちゃにされてるような感じがします。作り手側もそういうオタクの需要に乗っかるような内容のコンテンツを作る。製作側自身が露悪趣味に染まってるケースもある。
ディズニーも、プリキュアも、クッキーランも、サンリオも、ゲゲゲの鬼太郎も…どんどん濁っていく。
いないいないばぁっのキャラクターもそういうオタクの格好のエサにされて、サンドバッグみたいに下品で暴力的なネタの素材にされる。すみっコぐらしの映画もやたら鬱作品みたいに大げさかつ質の悪い歪曲をされて語られる。
ゲゲゲの謎もグロい所ばかり話題に上げられて鬱作品として消費されまくって、水木しげるさんの作風の事も知ったように短絡的に露悪と結びつけられる。戦争経験など過酷な経験をした人だからこそ描ける人間や社会への風刺と、現代の刹那的で享楽的な露悪趣味を一緒にしないでほしいと思います。
私はすみっコぐらしもゲゲゲの鬼太郎もコアなファンではないですけど、そういう状況は見てて決して気分の良いものではないです。

正直、今の娯楽は娯楽というよりも、「露悪ポルノ」「加虐ポルノ」って感じがしますね。
フィクションだけでなく、現実のむごい出来事すら対象にされる事も多いですし。
不幸な目に遭う人、悪行、それらの心が痛むはずの事や心のない事をニヤニヤ笑って楽しむ様は、娯楽を楽しんでるというより暴力を楽しんでるように思うのです。
そういう人達の楽しみを尊重しろと言われても、人の大切なものを荒らしても無自覚で平気な顔していられる、それに心を痛める人の気持ちを身勝手だと一蹴し自分が良ければそれでいい人の事など、尊重したくないです。

本当にその作品やキャラクターを愛してるのか、ただ手慰みのおもちゃにしたいだけじゃないのだろうか。
どれだけ「愛」「布教」と称して人の大切な作品を荒らせば気が済むのだろう。作り手も売れれば、話題になれば何でもいいのだろうか?
嫌なら見るな?不満があるならジャンルから去れ?公式がいつだって正しいなんて事はないし、称賛だけが正義でもない。
いつまでも未練がましくしがみつくな?人の不幸ばかり求めてしぶとくしがみついてる人に言われたくない。
そっちこそ出て行ってくれないかと…
純粋に作品やキャラクターを愛してる人間のほうが、ズケズケ泥だらけの土足で踏み込んで荒らしてきた人間達によって端に追いやられてしまう。それが現状です。

私のほうが純粋に作品やキャラクターを愛してるだなんて言うつもりはありません。私はただ苦しまなくていいはずの娯楽で苦しめられる事なく、心から笑顔で好きな作品やキャラクターに触れていたいだけなんです。
それでも私は現状を見て憂うだけしかできない。今は露悪と暴力が好きな人達が多数派。そして多数派が幅を利かせる社会。
触れる側かつ今は少数派の立場に置かれる人間は本当に無力なんだと思い知らされます。ものすごく悔しくて辛いです。

美しい言葉を探す楽しさ

暗い話が続いているので、たまには楽しい話でもしようかなと思います。
常に元気がなくて退屈なので心から明るい気持ちで楽しい話をする事ができないのですが、ずっと鬱々とした話をしてばかりいるのもますます虚しくなったりする時もあるので、少しでも良い事があれば時々でも話そうかなと。

最近は教養をつけたり心に響く美しい言葉を探したくて、青空文庫で昔の作家さんの詩集や短めの小説を読んだりしています。
尾形亀之助氏の、柔らかい言葉遣いで綴られる細やかで温かみのある季節や日常風景の描写が好きです。「秋は 綺麗にみがいたガラスの中です」という一文が、なんだか懐かしさを感じさせる美しい言葉だなと思い、心に刺さりました。
尾崎放哉氏の句や八木重吉氏の詩には、自分の今の心情と重ねて共感できるものが多く、一時的にでも心の澱が落ちるようです。
八木重吉氏の「貧しき信徒」は、日常の大切さを感じさせられる詩集で、時々切ない心情が綴られた詩もあり共感できすぎてしまい少し辛くなる事もあります。
でも、何気ない日々を過ごす時間の温かさも伝わってきて、毎日時間を大切に生きる事を心がけたいなと改めて思わせてくれます。Waveboxでこちらの詩集をおすすめしてくださった方、素敵な作品を教えてくださってありがとうございました。
新美南吉氏の「明日」は、最近読んだ作品の中で特に心に響きました。私の明日が来るのが辛い気持ちを包み込んで励ましてくれるようで、元気がない時は定期的に思い出したくなる作品です。

詩や小説などの文芸、そういう言葉で作る芸術にも興味があるので、絵が描けない時は言葉の芸術に触れてみてもいいかな〜なんて思ったりします。
まあ、私はまだまだうまい言葉の表現とか思いつきませんし、文才ないんですけどね。
それでも、言葉で美しい作品を私も作ってみたいので、文の才能も磨けるといいなぁと思っています。
自分の気持ちを投影して形にしやすい芸術ジャンルでもありますからね。吐き出したい気持ちを詩にしてもいいかもしれません。昔の作家さん、今の作家さんもそうして詩を書いてきていますしね。

近年はメディアも丁寧な言葉を使わずスラングを多用するようになりましたし、スラングが普通に通じないと、みんな使っていないとおかしいかのような風潮も生まれています。意思疎通さえ難しい略語、過激で品のないスラングにあふれた社会に毎日触れなければいけない日々は疲れます。
そんな現代だからこそ、素敵な文を探して言葉の本来の美しさに触れ、心を癒やしたいなとより一層思います。

今でも昔でも、言葉を丁寧に大切に使っている作家さんの作品は好きです。
まだ見ぬ美しい言葉を、これからももっと探していきたいです。

匿名のメッセージへの向き合い方を振り返って

最低限の良識を守れる、言葉が理解できる方のみご覧ください。
少しでも理解できないと感じた方は、何も言わず直ちに読むのをおやめください。
苦情は一切受け付けません。


今思えば、匿名で来た非難めいた一方的なメッセージは、まともに相手をする必要もなかったなと思います。
本当に労力の無駄だったと、もっと軽く対処して流すべきだったと。
そういったメッセージを送られる方は、ほとんど言いっぱなしで終わりでしたし、言葉に善意や思いやりがあるとは感じられませんでした。とにかく辛辣な言葉が並んでいたり、自分の都合を押し通したい態度が透けて見えました。
「話せばわかるかも」「ちゃんと向き合えば理解してもらえるかも」と思いながら自分なりに真摯に向き合ってきたつもりですが、全て徒労に終わっているように思います。
「言いすぎだ」「一つの意見も悪意に取るのか」と言われたりもしましたし。
私も常に完璧に対応できていたわけではなく、やりすぎたり適切な対応ではなかった時もありましたが、気づいたその都度、不適切な対応を取り下げたりしてきました。
それでも自分の努力と反省が報われたかというと…実感はないです。


不躾なメッセージや責め立てるだけのメッセージも、表でこそ冷静に相手の言葉に向き合いながら書いてましたけど、本当は「うるさいな」「匿名で好き放題言ってきて卑怯だな」と思っていましたし、それでも感情的にならずに対処し自分の意向を伝えようと気持ちを必死に抑えていました。
言いすぎだと言われた時も、相手の言葉の辛辣さに合わせて、自分も辛辣な言葉で返していたんです。
でも、それはかえって責められる弱みや隙を作ってしまう事になりました。しかし、冷静に対応しても相手に届かなかったり、届いたかもわからないまま話は途切れて、無駄になってしまう。理解したと言いつつ私の言葉の捉え方や返し方を責める人もいました。

(もちろんニックネームの事ですが)自分の名前を出さず、匿名でズケズケと無遠慮かつ高圧的に物を言ってきている時点で、無責任ですし誠実ではないのです。
何度も議論や苦情のためのメッセージボックスではないと言ってるのに、非難めいたメッセージを送り続けてくる人はいました。ここまで来ると、良識もそうですけど相手の識字能力を疑います。ちゃんと言葉が理解できているのかと。
おそらく、自分のメッセージに毒気がある事に気づいてないからなのでしょう。毒とも思ってないんじゃないでしょうか。
匿名じゃなければ何言ってもいいってわけでもないですけどね。名前を出しているアカウントで、引用リツイートで噛みついてきた人もいたりしましたし。


当人はアドバイスのつもりで「愚痴ばかりで怖い、そんなんじゃ絵の仕事は来ない。絵を描く人間は掃き捨てるほどいる。結果が全て」と言われた事もありましたけど、そんな尖った言い方をされても、後で誰がどう説得しようとも善意的なアドバイスとして受け入れるのは難しいと思いました。
「絵を描く人間は掃き捨てるほどいる」なんて言う人に、私の絵の価値や、私が今まで絵に注いできた努力や思いの何がわかるのか…というのが正直な気持ちでした。
このメッセージのおかげで、私は仕事を募集する気も失せましたし、そもそもSNSでもひとっ飛びに仕事で大成するのは難しく全ては運任せのようにも思うので、SNSだけを当てにするのはやめようと思っています。今はフォロワーの数も自分が注目される事も、こうやって影響力という概念を殊更に引き合いに出し圧をかける人のせいで大きな心の負担になっていますしね。
性格が悪く、乱暴な言葉や悪意満載の人でも仕事をもらえてる人はたくさんいますし。事実、フリーのイラストレーターやプロのクリエイターでも露悪的な発言や振る舞いを隠さない人や、それで炎上し続けても干されずに才能一本で仕事できてる人がいて、周りから持て囃されてる人もいるのは、SNSや今のメディアを見ていれば明らかです。(私はそういう人が大嫌いですが)
私は最善を尽くして、良い人間であれるよう努力して生きてるつもりなんですけどね…。

愚痴ばかりで暗い空気を漂わせてしまっている事に後ろめたい気持ちはいつもありますが、愚痴を言わなきゃやってられない所もあります。ただでさえ毎日ストレスが溜まるような出来事の多さに耐える事を強いられる世の中なのに、これ以上苦しみを我慢していたら自分が壊れてしまう。愚痴くらいは許してくれないかなって思います。
相手の言葉を受け入れなければさらに責められたり、自分の精神状態に原因があるように言われた事もありますが、私はイエスマンが欲しいわけではなく参考にならない言葉は受け入れないようにしているだけです。

参考にできない言葉を、自分の意思に反して無理やり受け入れていたら、自分じゃなくなります。人の言う事を尊重し受け止める事と、人の言いなりになる事はそれぞれ別物です。
私は明確に善意が伝わると感じられるメッセージは深く感謝し受け取り、参考にしています。尊重すべきメッセージであるかどうか判断した上で、明らかにネガティブで配慮に欠けると感じたメッセージは受け取っても参考にも有益にもならないので受け取らないようにしているだけなんです。
それでもそういう私に問題があるかのように責める方達は、単純に私の愚痴や意見が気に入らないから、何かと理由をつけ正論っぽくし苦情をアドバイスや建設的な意見のように見せて送り、自分の都合を押しつけているだけのようにも思います。
「こうすればあなたが楽になるよ、状況が良くなるよ」という意図よりも「あなたが不快だ」「自分の言葉や意図を受け入れてもらえないのは心外だ」という意図のほうが強く伝わってきましたしね。相手の立場になれていないと感じます。

それと、私の精神状態を理由にするのも、思いやっているようで極めて思慮に欠けると思いますしね。私だけではなく他に精神を病んでいる人にも失礼な考えだと思います。
私にも一人の人間としての意思や心がありますので、それを理解できる人にだけメッセージを送っていただきたいなと思います。
温かい言葉で労りのメッセージを送ってくださる方達は、それをわかってくださっていると思っています。


メッセージの事を母に相談するたび、母からも「好き勝手に言う連中は、相手にせず無視すればいい。時間の無駄だよ」と言われてきました。
それでも私は言われっぱなしで泣き寝入りしたくないと、つい相手に反論したくなり時間をたくさん費やして言葉を返してしまいますし、そういった気持ちを持ってしまっているがゆえに母と考えがすれ違い話がぶつかる事もたくさんありました。
そうやって、どれだけ自分の時間も、家族の時間も無駄にしてきたか。情けないし、家族には本当に申し訳ないです。
当人の都合を押し通す一方的で辛辣なメッセージは、相手にするだけ自分の心を蝕み荒ませていくという事がよくわかります。
母の言葉は、よく当たっていると思います。
そういうメッセージに対する愚痴をこぼし、そういう送り主にメッセージを送ってこないでほしいと言うと、全く悪意のなく見るからに善意が詰まった温かいメッセージを送ってくださった人ほど自分の事だと誤解してしまい、そうやって大切に思い傷つけたくない人を傷つけてしまう事もあるのです。
まともに取り合っても通じないような、自分の都合しか考えていないメッセージとその送り主を相手にするなど、百害あって一利なしです。
そのせいで大切な人を傷つけたくないし、ますます自分の心を歪める事もしたくないです。


温かい言葉で励ましたり応援してくださるメッセージは、本当に私を思いやってくださっているのがよく伝わってきます。
「まだこの世界で生きててもいいと思えるような、楽しい事を見つけてみて」「このお菓子や曲は元気になれるからおすすめですよ」など優しい言葉とお気遣いが詰まっていて、心からありがたいと思っていますし、辛い毎日でボロボロな中でも心を支えていただき助けられています。
私はそうやってお互いに顔が見えなくても自分を大切に思ってくれる人に、もっと目を向けるべきなんです。
これからはさらに、自分に厚意を向け応援してくださる人には大きな感謝と思いやりを持ちたいです。そして、自分を理不尽に扱ってくる人には私も同じように相手をぞんざいに扱おうと思っています。

私の心も絵も、全ては自分と、私を大切に思ってくれる人のためにあります。
自分を大切にするため、私を大切にしてくださっている人に温かい気持ちを返すために、私は毎日を生きていきたいです。

娯楽を楽しめないもういくつかの理由

毎度お約束のような前置きですが、一個人の嘆きなので、気に障ると感じたら何も言わず引き返してください。


娯楽が気軽に楽しめる場所ではなくなってしまった憂いを数日前に話していましたが、他にも楽しめなくなった大きな理由がいくつかあった事を思い出しました。

近年のオタクを名乗る方々は、「履修済みか未履修か」…つまり作品を全てちゃんと見て把握しているかそうでないかを、鋭く追及してくるんですよね。
作品の全てを知っていないと、キャラに触れて話す事も許されない。シリーズものの中の一つのコンテンツをすでに触れていて深く知っていても、他のシリーズ内コンテンツに言及する事は十分に触れていなければ許されない。
原作から見てるか、他のメディアやSNSの情報から触れているかで、正しく作品やキャラクターに触れられているか判断される。
作品やキャラクターへの触れ方は、よほど悪意的な意図があったり著しく迷惑をかけるような行動でなければ、どんな形でも自由なはずなのに。

触れる側もそれぞれ環境が違って、ゲームができる機器を持ってないなど深く触れられる環境がないけど自分も作品を楽しみたくて、SNSでの公式アカウントやファンが共有する情報など少しだけでも他に触れられる手段があれば、そういった形で触れている人もいると思うんです。
公式がひどく困っているからやめてほしいと明確に言及してるわけではないなら、触れる側が悪意を持っておらず積極的に作品に興味を持ち楽しもうと考えているなら、それは決して悪い事ではないはず。


鋭く追及してくる人々も、どこまで全て細かく好きな作品の事を知っているかというと、彼らも環境によって普通の触れ方とは違う触れ方で作品を楽しんでる時もあるんじゃないかと思います。
作品に触れる前から、身内のファンからの情報だけで一緒に盛り上がってる人も見かけます。
「ミリしら」(一ミリも知らないけど作品やキャラクターを想像で語る遊び)や知らないキャラを身内から頼まれて描く事も普通に受け入れられてるように思いますが、それもある意味「未履修」で作品やキャラクターに触れてると言っても過言ではない気がします。
根強いファンでも「触れていない人でもこの話やシーンだけは見て知ってほしい!」と、作品の一部分を広める人もいますし、そういう事が受け入れられてるファンコミュニティもありますしね。
履修か未履修か、どこまで作品を知っていれば楽しむ事や語る事を許されるかなんて、やっぱりそれを判断する当人の都合である部分が大きいように思います。

細かく深く知っていなければ作品に少しでも触れて語る事が悪しき事だと言うのならば、今頃多くの人が許されざる人という事になるでしょう。キリがないです。
かなり前から「にわか」と呼ばれるまだ少ししか作品を知らないファンを「にわかが知ったように語るな」と排除したがる人はすでにいましたが、そういう人のほうができるだけ作品を多くの人に知ってほしい公式にとって迷惑なのではないかと思います。
一番作品を把握してるはずの公式ですら、自ら自分の作品の良さを知らずのうちに壊して。作品を台無しにしてしまう事だってありますしね。これに関しては悲しい事ですが。


それでも多数派の影響力は凄まじく、「深く触れていなければ作品を楽しむ事は許されない」という人が多ければ、そう考える彼らの意にそぐわない人物は「学級会」と巷で呼ばれる、論争や吊し上げに発展させられ、数でねじ伏せられてしまう。
どんなにいびつで不健全でも、多数派の意見が、世間のマジョリティが絶対になってしまう。いつでも激しい同調圧力が強く根付いている。
作品が一つ存在するごとにそんなコミュニティがあると思うだけで、怖すぎてうかつに作品やキャラクターに触れられないですね。
称賛だけ話していれば少ししか作品を知らなくても好意的に見られるのかなとも思いますが、おそらく関係ない気がします。楽しく触れていようと、批判意見も持ちながら作品と向き合っていようと、多数のファンの意にそぐわなければイナゴとかエアプとか言われてしまうのですし。
まさしく「村社会」です。

作品を深く知っていても、作品にとって風評被害が出たりなど危険に繋がるような行動をする人もいます。
内容が若干切ないだけのほのぼのメインの作品でも「鬱作品」とわざと悪趣味に誇大解釈して、内輪ノリの感覚で人の目につく場所で「布教」と称し作品を広めようとする人がいても、許容してる人のほうが目立っています。
作品を知っていれば、歪曲し誇張して人に広めてもいいのかと、私は疑問を感じます。


娯楽に触れて、楽しむ事も、憂う事も、周りの都合で縛られる。
でも縛る側の人間達は例外で許される。それがどんなにモラルに反する事であっても。人は許さないけど、自分達は許す。
娯楽に触れようとするだけでそんな空気に飲み込まれるなんて、娯楽って本当に何なんでしょう。
無自覚なんでしょうけど、自分達が一番娯楽の豊かさと価値を傷つけ失わせているとそろそろ気づくべきだと思います。
気づける人間だったら、とっくに反省して行動を改めているでしょうけどね。

今の娯楽は、心が荒んでいて狭量な人々に支配されてしまっている。本当に空気が濁っていて、かえって心の毒です。
人が関わっている以上、娯楽も現実と変わりなく、有毒な人によって容易に残酷な場所に変わるものなんだなと改めて痛感します。
人はどうせ他人なので、自分の望むように夢を見せてくれるわけではない。夢を望む事さえもわがままだと断ずる人がいる。夢どころか汚い現実を見せつけてくる。
そんな世の中だから、今は自分の世界の中に、殻に閉じこもるしかないです。
本当に虚しくなります。

こういった話を母にもよく聞いてもらっているのですが、母は「言いたがりな人が多いんだ」「周りの人の意見なんか気にせず、誰かに迷惑をかけなければ好きに楽しめばいい」と言っていました。
今は疲れているので娯楽に深入りせず距離を取っていますが、もしまた心から娯楽を楽しめる日が来たら、母の言葉通り人を気にせず穏やかに好きなものを楽しみたいです。

味気ない日々と音楽

アニメや漫画やゲームとは極力距離を置き、人と接する機会もほとんどなく、絵を描く頻度も減り丸1日絵を描かない事も珍しくなく普通になってきたので、味気ない日々が続きます。

今日はまた夢で日頃の悩みや嫌に思っている事が反映されたかのような夢を見て、人との関わりへの鬱屈とした悩み、家族がこれからも元気に生きられるかどうか不安な気持ち、いろんな辛さが混ざって夢の中で泣き、目が覚めた時に現実でも泣いていました。
相当ストレスが溜まってるような気がするので、本当にしっかり心を休める事をしなければと思います。ずっと思考がぐちゃぐちゃで頭の中が騒がしいので、休みたくても休まらないんですけどね。それでも意識的に休ませていきたいです。

世の中、こうして辛い事をずっと嘆き続けてると「メンヘラアピール」と言う人もいるようですが、自分の苦しい気持ちに正直でいる事は大切な事ですし、そんな心ない事を思う人の機嫌に配慮する必要もないと思うので、これからも辛い時はちゃんと辛いと言いたいです。
私自身いつまでもめそめそしてる自分が嫌いですが、自分の苦しい気持ちは少しでも誰か理解してくれる方に知ってほしいですし、誰にも気づかれないまま、周囲にとってはまるでないもののように一人で黙って抱え続けるのは嫌なので。
自分だけでも自分の苦しみを認めなければ、本当に居場所がないですからね。ありがたい事に共感し理解してくださる方もいるので、決して本気で自分だけだとは思ってませんけどね。

好きな音楽を聴く事もやや少ない時はありますが、音楽は一番手軽に心から楽しめる娯楽だなと思います。音は人を裏切らないと思っています。
まあ、歌詞や作者は時々裏切る事もありますが。人間が作り、人間の思想が反映されてますからね。
でも音は心地いい音を選んで聴けばいいし、人の手がかかっていても音は純粋に音として存在し集まっているだけなので、音に罪はないですね。
全ての雑音から離れ、穏やかになれる、元気になれる音だけ聴いていたいです。

娯楽が苦痛になる悲しみ

最近は、アニメや漫画やゲームなどの娯楽に触れる事も、二次創作をする事も、意欲がほとんどなくなっています。
なので今は、自創作に打ち込む事にしています。
ただ、自分が望む事ができているという実感は薄く、物足りなさを感じては気分が落ち込みます。
好きなもの、本当に今一番したい事を諦めているからなんですよね。今の状況では、自分の心を守るために諦めざるを得ないのです。

自創作に打ち込めているからといって、それを「オリジナルで自分の理想の世界を作ればいいじゃん」と、娯楽に憂う声を封じるための口実にされるのは嫌ですし。
自炊できるけど、外食も楽しみたいという人だっていますよね。自分が食べたいご飯は自炊だけでまかなえというのは、あまりにも味気ないです。

せめてここでくらいは、その悲しみややるせなさを吐露させてください。
私と同じ考えを持ちわかってくれる人だけに私の気持ちを知ってもらえればいいと思ってるので、少しでも気に障ると感じた人はすぐに読むのをやめ、何も言わず引き返してください。


全くアニメや漫画やゲームに触れなくなったわけではなく、今も触れてる作品はありますが、本当に明るく楽しませてくれると信頼できる作品はごく限られているように感じます。
少しでも触れられる作品があるだけまだ良いのかもしれませんが…それぞれの作品は唯一無二であり他に代わりはありません。
一つでも好きな作品でショックな出来事があれば、当然とても苦しいわけで。
現在触れてる作品でも、いつまで安全に穏やかに楽しめるかわからず不安を感じているものもあります。

人が作るものに触れれば一つや二つくらい嫌なすれ違い方をする事もあると思いますが、誰だってなるべく思い入れのある作品で辛い思いはしたくないはず。
今はすれ違いとか、そういう小規模な話ではなくなってきています。
心を癒やすものであるはずの娯楽で、頻繁に心ない出来事、トラウマになるようなひどく気が滅入る出来事がある事自体が、とても悲しいんです。

ショッキングで暴力的な表現、非倫理的な事や悪を賛美し煽るやり方、過度に気が塞ぐような鬱々とした陰惨な作風に、今は多くのクリエイターや会社が無節操に手を出し、大衆向けに発信しています。
本来は隠れて楽しむべきである刺激の強いものが普遍的なものとして定着し、あちこちのメディアで分別なく取り上げられ避ける間もなく目にしてしまいます。
私が癒やされると感じ楽しんでいた、明るい作風だったからこそ好きだった作品も、そういった路線に向かってしまう事も増えました。
楽しむよりもストレスを感じる事のほうが多くなり、ストレスどころかトラウマにまでなってしまった事もあります。


今の娯楽を取り巻くコミュニティも、極めて窮屈かつ有毒になっていると感じます。
オタクを名乗る人に、露悪的で乱暴な言動や行動を取る人があまりに多い。オタクだけに限った話でもないですが。
本当はわざわざ予防線のように前置きとして言わなくて済むようにしたいのですが、「みんながそうではない、まともな人もいる」というのは重々承知の上で話しています。
まともではない人のほうが強烈に目立っているので、まともな人はその陰に埋もれてしまってるんですよね。だから嘆いているのです。

作品やキャラクターへの評価についても、称賛だけが愛であり正義、批判はそれを否定する悪だと思い込む極端な考え方が、根強く定着してしまっている。
「この描写や展開はショックだった、残念だった」「このやり方はさすがに腑に落ちない、もっと良いやり方があったはず」「もっとこのキャラクターは良い活かし方があったはず」と残念な気持ちや疑問を話しただけでも、糾弾されてしまう。
「嫌なら見るな」「全て自分の思い通りになるとは限らない、他を当たれ」「いつだって公式が絶対に正しいのだから文句を言うな」「表現の自由を認めるべきだ」などと。
そう言ってる人達だって、自分に合わないと思ったものには正直に「解釈違い」などと批判的な意見を言っているのに。

「どれだけ狂っているか」アピールをする人々もよく目につき、「集団幻覚」「脳死」など、品のない、不謹慎な言葉も普通に飛び交っている。
「ほのぼの作品だよ」と称して、内容が暗く猟奇的な作品を勧めて反応を面白がる人もいる。これに関してはもはや嫌がらせに等しいと思います。
闇と無縁な作品であっても闇を見出し、作品に暗い部分があるという所だけに注目し食らいつき、露悪、鬱、グロテスク、地獄、人の心がないと誇張してはやし立て「闇が深くてオタクが好きそうだからみんな見て」と広めながら、荒らしていく人もたくさんいる。
私が以前から好きな作品にも、そう消費されてしまっている作品があり、苦しい気持ちです。

そして、オタクに偏見を持たれるのが嫌だと言いながら「狂ってこそオタク」「限界オタクだから」と、自分の暴走をオタクという概念を都合良く使って正当化する人も多い。
ミュートやブロックをしたって、そういった人の人口が多すぎるのでキリがないです。
声が大きく過激で倫理観に欠け責任を持たない人々が影響力を持ち、常に娯楽の世界を掌握している。穏やかに楽しみたい人は日陰に隠れるしかない。
この状況に苦言を呈せば、こっちがおかしな事を言っているかのように悪者扱いされる。現実とフィクションの区別がついてないとも言われてしまう。現実にも内輪ノリや悪趣味を持ち込み、本当に区別がついてないのはそっちなのに。
自分さえ良ければいいと思ってる人ばかり。
多勢に無勢。


もうここは、癒やしを求め、良い夢を見ながら平穏に過ごせる場所ではないのだなと悟りました。
今の娯楽の世界は、歪んだ性癖を公にアピールし、惨劇をスナック感覚で笑って楽しみ、悪を称え煽って気持ち良くなる事を「癒やし」とする人々が「癒やされる」ための場所になっているのだろうと感じました。

「みんながそうではない」「そういう作品ばかりではない」、そう言うのであれば、もっとモラルを持って自浄作用を働かせてほしい。悪意を娯楽としてブームにするのではなく心が温かくなれるものを流行らせてほしい。
でもその声も埋もれてしまうし、そう言った所で、世界が簡単に変わるわけでもない。
だから、そんな現状である娯楽から距離を置いて、現時点でより安全で無難な場所に避難するしかないのです。

私と同じように、泣く泣くそういう選択をしている人が少なくない事を知っています。私一人だけじゃない。
オタクみんなが悪趣味で分別のない人ばかりではないからこそ、今の露悪やエログロナンセンスが大衆向けに発信されたり、現実に実害がある事すらも娯楽として消費してしまう人の多さや風潮の根強さに、嘆いてるオタクの方も少なくありません。
それでもこの状況は未だに変わらないどころかエスカレートしている。やっぱり現状が異質なんです。

なぜ平穏な場所を壊し、人の大切なものを歪め、周囲に気を配れない人に、こちらが配慮したり尊重しなければいけないのか。周りを見ずに大声を出して暴れる人に、思いやりを持つ必要なんてあるのか?疑問は尽きません。
自由だとか新しい挑戦だとか、趣味と人格は違うとか、そんな言い訳も聞きたくない。
自分の好きな作品やキャラクター、癒やされてきたはずの娯楽が、心ない人に荒らされるのを黙って見ているしかできない事が悔しいです。
せめて陰で嘆くだけでも、許してほしいですね。娯楽は痛みを強いる場所ではないのですし、痛みを打ち明ける事すら許されないなんて本当に酷ですから。

今の娯楽には夢も見られないし、期待する事も残念に思う事も許されない。
それ以外に安全圏だと思える場所にこもる事にします。

最近のプリキュアに思う事

最近のプリキュアは、かなり迷走してるように思う。
売り出すためにもう手段がないのか、VTuber好きを引き込むために思えるようなバーチャルイベントの開催を決めて、プリキュアファンから苦言を呈されていたし。

ひろプリもね…序盤の時点であげはが女児向けにそぐわないような過激な物言いをしたり、ソラとましろのコンビ推しが強めで嫌な予感して早々に離れたけど、評判見てると微妙だという声や冷静に問題点を指摘してる人がけっこう少なくなく、不安は的中したようだし離れて正解だったんだなと思った。
なんとなく倫理観のズレや配慮不足を感じてたし、コンビ推し傾向もしつこかったり大きなお友達への媚びもあるように思えてたけど、どうやら間違ってなかったらしい。

プリキュア次回作の「わんだふるぷりきゅあ」、「みんななかよし」って言ってるけど、ひろプリやシリーズ展開での子供や道徳への配慮に欠けるやり方やウィングの衣装ハブった事件見てると、もう説得力ある作品は作れないんじゃないかなぁと思う。動物モチーフもすでに出し尽くしたと思うし。
前のように、新しいプリキュアの発表も素直に喜べなくなったな。

「みんななかよし」も、箱を開けたら「人と仲良くする事を強要するな!」とひねくれた視点で物を見る大人に日和見するような「誰とも仲良くなれなくてもいい」とシニカルでドライなメッセージを込めたり、トロプリのローラみたいにずっとわがままなままの子を「良い子じゃなくてもいい、それが個性だから。許して仲良くしてあげようね」みたいな変な綺麗事を通そうとするのかなぁとか思ってしまう。
それだけ今のプリキュアには、不健全な印象が強くなってしまってるんだよ。

子供は何出しても深く考えずに楽しむから、子供が楽しければ何でもいいと思ってるなら、それは単なる子供騙しだなと思う。本当に子供の健全な育ちや楽しい経験に寄り添ってるとは思えない。
こうやって言うと「子供を盾にするな」って、その言葉を盾にした大きなお友達が批判封じしてくるんだよね。
またひねくれた大きなお友達だけが盛り上がるシリーズになるのかなって思っちゃうな。

ひろプリでも思うけど、道徳的なテーマに反した中身が伴わないストーリーに振り回されて、ただ注目性だけの客寄せパンダみたいになってて、せっかく生まれてきたキャラクターがかわいそうだなって思う。
ウィングだって、プリキュアに憧れる男の子の希望の存在になれたのに、扱いが中途半端だし。
新しい要素を誠実に健全に貫き通す意志も感じられないし、新しい要素自体が俗っぽく不健全だったりもする。
これから発表される、わんだふるぷりきゅあのキャラクターも、先が思いやられる。

もう東映も、プリキュアを卒業すべきじゃないかな。新しいアイディアが浮かばないから、プリキュアの人気にすがってるようにしか見えない。
それでプリキュアの形があらぬ方向に歪められてる現状に、子供の頃から初代からプリキュアに触れてきた私はとても悲しい。
信念が薄く中途半端な東映や、歪んだ大人達が卒業しないなら、私が卒業するしかないよね。
これ以上がっかりしたくないから、今のプリキュアからは身を引いて、今までのプリキュアの大切な記憶だけ心にしまっておきたい。
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