娯楽を楽しめないもういくつかの理由 | Serenity Fruits

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日常や趣味についてつぶやきたい事を書く。愚痴も言う。無理せず自分のペースで好きに過ごしたい。独り言ノートなので、意にそぐわなければ何も言わず引き返してね。
日常や趣味についてつぶやきたい事を書く。愚痴も言う。無理せず自分のペースで好きに過ごしたい。
独り言ノートなので、意にそぐわなければ何も言わず引き返してね。

娯楽を楽しめないもういくつかの理由

毎度お約束のような前置きですが、一個人の嘆きなので、気に障ると感じたら何も言わず引き返してください。


娯楽が気軽に楽しめる場所ではなくなってしまった憂いを数日前に話していましたが、他にも楽しめなくなった大きな理由がいくつかあった事を思い出しました。

近年のオタクを名乗る方々は、「履修済みか未履修か」…つまり作品を全てちゃんと見て把握しているかそうでないかを、鋭く追及してくるんですよね。
作品の全てを知っていないと、キャラに触れて話す事も許されない。シリーズものの中の一つのコンテンツをすでに触れていて深く知っていても、他のシリーズ内コンテンツに言及する事は十分に触れていなければ許されない。
原作から見てるか、他のメディアやSNSの情報から触れているかで、正しく作品やキャラクターに触れられているか判断される。
作品やキャラクターへの触れ方は、よほど悪意的な意図があったり著しく迷惑をかけるような行動でなければ、どんな形でも自由なはずなのに。

触れる側もそれぞれ環境が違って、ゲームができる機器を持ってないなど深く触れられる環境がないけど自分も作品を楽しみたくて、SNSでの公式アカウントやファンが共有する情報など少しだけでも他に触れられる手段があれば、そういった形で触れている人もいると思うんです。
公式がひどく困っているからやめてほしいと明確に言及してるわけではないなら、触れる側が悪意を持っておらず積極的に作品に興味を持ち楽しもうと考えているなら、それは決して悪い事ではないはず。


鋭く追及してくる人々も、どこまで全て細かく好きな作品の事を知っているかというと、彼らも環境によって普通の触れ方とは違う触れ方で作品を楽しんでる時もあるんじゃないかと思います。
作品に触れる前から、身内のファンからの情報だけで一緒に盛り上がってる人も見かけます。
「ミリしら」(一ミリも知らないけど作品やキャラクターを想像で語る遊び)や知らないキャラを身内から頼まれて描く事も普通に受け入れられてるように思いますが、それもある意味「未履修」で作品やキャラクターに触れてると言っても過言ではない気がします。
根強いファンでも「触れていない人でもこの話やシーンだけは見て知ってほしい!」と、作品の一部分を広める人もいますし、そういう事が受け入れられてるファンコミュニティもありますしね。
履修か未履修か、どこまで作品を知っていれば楽しむ事や語る事を許されるかなんて、やっぱりそれを判断する当人の都合である部分が大きいように思います。

細かく深く知っていなければ作品に少しでも触れて語る事が悪しき事だと言うのならば、今頃多くの人が許されざる人という事になるでしょう。キリがないです。
かなり前から「にわか」と呼ばれるまだ少ししか作品を知らないファンを「にわかが知ったように語るな」と排除したがる人はすでにいましたが、そういう人のほうができるだけ作品を多くの人に知ってほしい公式にとって迷惑なのではないかと思います。
一番作品を把握してるはずの公式ですら、自ら自分の作品の良さを知らずのうちに壊して。作品を台無しにしてしまう事だってありますしね。これに関しては悲しい事ですが。


それでも多数派の影響力は凄まじく、「深く触れていなければ作品を楽しむ事は許されない」という人が多ければ、そう考える彼らの意にそぐわない人物は「学級会」と巷で呼ばれる、論争や吊し上げに発展させられ、数でねじ伏せられてしまう。
どんなにいびつで不健全でも、多数派の意見が、世間のマジョリティが絶対になってしまう。いつでも激しい同調圧力が強く根付いている。
作品が一つ存在するごとにそんなコミュニティがあると思うだけで、怖すぎてうかつに作品やキャラクターに触れられないですね。
称賛だけ話していれば少ししか作品を知らなくても好意的に見られるのかなとも思いますが、おそらく関係ない気がします。楽しく触れていようと、批判意見も持ちながら作品と向き合っていようと、多数のファンの意にそぐわなければイナゴとかエアプとか言われてしまうのですし。
まさしく「村社会」です。

作品を深く知っていても、作品にとって風評被害が出たりなど危険に繋がるような行動をする人もいます。
内容が若干切ないだけのほのぼのメインの作品でも「鬱作品」とわざと悪趣味に誇大解釈して、内輪ノリの感覚で人の目につく場所で「布教」と称し作品を広めようとする人がいても、許容してる人のほうが目立っています。
作品を知っていれば、歪曲し誇張して人に広めてもいいのかと、私は疑問を感じます。


娯楽に触れて、楽しむ事も、憂う事も、周りの都合で縛られる。
でも縛る側の人間達は例外で許される。それがどんなにモラルに反する事であっても。人は許さないけど、自分達は許す。
娯楽に触れようとするだけでそんな空気に飲み込まれるなんて、娯楽って本当に何なんでしょう。
無自覚なんでしょうけど、自分達が一番娯楽の豊かさと価値を傷つけ失わせているとそろそろ気づくべきだと思います。
気づける人間だったら、とっくに反省して行動を改めているでしょうけどね。

今の娯楽は、心が荒んでいて狭量な人々に支配されてしまっている。本当に空気が濁っていて、かえって心の毒です。
人が関わっている以上、娯楽も現実と変わりなく、有毒な人によって容易に残酷な場所に変わるものなんだなと改めて痛感します。
人はどうせ他人なので、自分の望むように夢を見せてくれるわけではない。夢を望む事さえもわがままだと断ずる人がいる。夢どころか汚い現実を見せつけてくる。
そんな世の中だから、今は自分の世界の中に、殻に閉じこもるしかないです。
本当に虚しくなります。

こういった話を母にもよく聞いてもらっているのですが、母は「言いたがりな人が多いんだ」「周りの人の意見なんか気にせず、誰かに迷惑をかけなければ好きに楽しめばいい」と言っていました。
今は疲れているので娯楽に深入りせず距離を取っていますが、もしまた心から娯楽を楽しめる日が来たら、母の言葉通り人を気にせず穏やかに好きなものを楽しみたいです。
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